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   自宅の小さな庭での、植物や小動物、虫たちの営みや、日々の生活のあれこれを、徒然に書いてみたいと思います。

震災について②
 昨日に引き続き、震災関連記事です。

2011年3月11日、14:46、その時、私は宮城県石巻市の実家にいました。


親戚のお葬式に出席するために帰っていて、その日自宅へ帰る予定だったのです。


朝ご飯を食べて、母とおしゃべりしながら身支度を済ませ、母とお昼ご飯を食べに
ラーメン屋さんへ行き、その帰りに親戚宅でお線香をあげて「また来るね~。」
と言って実家に戻り、自宅への帰り支度をして、本当はすぐ帰ろうと思っていたのに、
何故かすぐに帰る気になれずに、母と話をしていた時に、突然大きな地震が来ました。



それは、これまで経験したこともない程の揺れでした・・・。

地球が壊れるかと思うほど強く、そして長く揺れました。
3分程の間、ずっと揺れていました。


「宮城県沖地震」はいつか来るといわれていたので、うちでは、
たいていの地震では落ちない様に、家具などは固定していたので
大丈夫だったのですが、花瓶や絵、額などが落ちて、粉々になりました。


地震と同時に、単身赴任で山形にいる旦那から電話が来ました。
怖くて、叫びながら、母と一緒に玄関の方へ逃げながらも、
しばらく電話を切れませんでした。
ものすごい揺れに、今日で地球は終わるのだと感じて、
最期の時を迎えるその時まで、ずっと声を聴いていたかったのです。
「こんな時に一緒にいられなかったね」と、悲しく思いました・・・。


旦那から「テレビをつけろ」と言われて電源を入れたのですが、
停電してつかなくて「今、津波警報が出たから、すぐに避難しろ」と言われました。

地震が少し治まってきたので、私は少し落ち着いてきて、電話を切り、
そして、私はさっき会ってきたばかりの親戚に電話をかけました。
でも、その時には、県内はもう誰にかけても電話は繋がらなくなっていて、
その後、何度かけても、電話が繋がることはありませんでした。



とりあえず、ご近所に「大津波警報が出たらしいから避難しましょう」
と声をかけて、一番近くの避難所に母と一緒に、コートとカバンだけを持って
逃げました。他の人々も、たいていは何も持たずに集まっていました。

実は津波警報が出ていても、本当に津波が来るとは誰も思っていなかったのです。
これまでも、何度も地震の度に津波警報が出ても、本当に津波が来たことが
なかったからです。
私自身も、海から2キロ程のうちまでは、津波が来たとしても床下浸水くらいで、
たいしたことはないだろうと、高をくくっていました。


はじめ、私は車で逃げようかと思ったのですが、母に「車は駄目だよ」と言われて、
歩いて5分の避難所に行きました。行く途中、避難所の前の国道は車が渋滞して、
全然動いていませんでした。それを横目で見ながら避難所に行き、念のため、
2階にあがって、ご近所のみんなで「怖かったね~。」と話をして津波警報解除を
待っていました。外から聞こえる音は、消防のサイレンのみでした。
きっと地震で火災が発生したのだと、みんな思っていました。
特に、津波が来るといったアナウンスのようなものは何も聞こえませんでした。


最初の大きな地震から30分ちょっと過ぎたころでしょうか。
窓の外を見て騒いでいる声が聞こえてきたので、窓の方へ行ってみると、
すでに窓の外は3メートル近くの津波が到達していました。
津波の来る音などは全然聞こえず、津波が来ていたことにも気づきませんでしたが、
2階建ての避難所の、窓のすぐ下まで水が来ていたのです。
それと共に、それまで穏やかだった天気が一転、吹雪になっていました。

窓から見えるうちの実家は、1階部分が完全に水につかっているのが見えました。
はじめ、目の前に見える光景が信じられませんでした。
誰も声も出せません。ただ、ぼ~っと外の景色を口を開けて見ているだけです。
1年前の外国の津波をテレビで見たのとまったく同じ光景で、
「ああ~、これまで、自分は他人事だったんだな。ごめんなさい。」と思い、
「今日で人生が終わるんだ。」と思いました。

国道側の窓から外の様子を見ていた人が、
「人が流されているけど、どうしてあげることもできない。」と言っていました。
「流されている人の手が見えたんだけど、すぐに見えなくなってしまった。」
とも言っていました。
避難所に来る途中、車が渋滞して動かなかったことを思い出しました。
その人たちは、どうなったのか。それを考えると恐ろしくて、私は
外を見ることもできませんでした。



私たちの避難した場所は、海から2キロ程のところにある避難所でした。
近所の人たちが避難していて、だいたい200人位いたでしょうか。
そこは2階建てで屋上もなく、初めの津波で、窓のすぐ下まで津波が来ていて、
屋根に逃げることも不可能で、第2波、第3波が来たら、波に飲まれる恐れがありました。
周りは3メートル程の水に囲まれて、逃げることも出来ません。
「最悪の場合、窓から泳いで逃げようね。」と母に言いました。
そして、「たぶん、波が早くて、手を繋いでもはぐれちゃうから、それぞれが精一杯泳いで、
一か八かだけど、少し先にある製網所に網が高く積まれているから、そこまで泳いで、
助けを待とうね」とも話しました。
最後の最後まで最善を尽くして、それでダメならしょうがないと、
腹をくくってしまったら、心がストンと腹に落ちて、冷静になれました。


その時、奇跡的に隣の県にいた旦那から携帯に電話が来て、話をすることが出来ました。
県内の人には誰にかけても繋がらなかったのですが、他県にいた旦那とだけは少しの間
電話が出来たのです。旦那はこちらに向かっているとのことでした。
私は「最期の最期まで最善を尽くすけど、窓まで波があともう少しの高さまで来てるから、
もしかしたら、サヨナラかも知れない」と母に聞こえない様に言いました。
(母には希望を捨てない様に励ましていたので・・・。)旦那は泣いていました・・。
そしてそれっきり、電話が通じなくなってしまい「最期の電話があれでは旦那が可哀想だな~」
と、ちょっと後悔したりしました・・・。

昼間に会って来たばかりの親戚もどうしているか不安だったのですが、
自分たちがここにいるということは、きっと彼らもどこかで生きてて、
また会えると信じることに決めました。

そして、それから、旦那が迎えに来てくれるまでの3日間、私たちは、
一人につき、飴玉一個とコップの水半分ほどだけで、避難所の薄いカーテンに
包まって、パイプ椅子に座ったまま、助けを待ち続けたのでした・・・。

夜の間中も、大きい余震が来て、小さい子供達が泣き叫ぶ。
コックリコックリしては地震と寒さで目が覚める。
一時間過ぎるのが遅くて、凍える中での、朝までの時間の長いこと。

自分たちのいる建物の上をヘリコプターが近づくたびに、助けが来たと、
希望を持って、その音が去っていくのを聞いて、絶望する、の繰り返し。
いっそ助けてくれないなら、飛んで来ないで欲しいと思ったりもした。

その間、周りの人の中には、悲観的なことを言っている人もいたのですが、
私と母と近所の奥さんの3人は、のんきな感じで、でも諦めてはいませんでした。
「エコノミー症候群になるといけないからね~。」と言って、数分おきに
「はい、頭をくるっと回して~、次は右手ぐるぐる回すよ~。はい、反対の手~。」
なんて言って、最期まで明るく過ごそうとしていました。

ラジオで被害の大きさを知るにつれ、心の中は不安でいっぱいで、このまま、
助けが来ることはないかも知れないな~とも思ったし、周りは水に囲まれているから
ロウソクの灯りで火災が発生したらマルコゲだし、最悪餓死するかな~とも
思ったのですが、最期まで希望を捨てずに、明るく生ききりたいと思った。
寒くて、ひもじくて、眠れなくて、体が痛くて、辛くて、悲しかったけど。

3日目の朝を迎える頃に、私は助けを待つのではなく、自力で何とかしようと考えました。
ペラペラのカーテンを被っていても、寒くて寒くて、耐えられそうになくて、それに、
母は薬を飲まないと内臓に穴が開く病気なのに、すぐ帰るつもりで薬を持って来なくて、
苦しんでいて、寒さだけでも、何とかしてあげたかった。

他のうちでは、男の人が水浸しの中を、自宅の2階にある毛布を取りに帰る人がいて、
でも、うちは男手がいなかったので(みんな単身赴任中)、私が自力で実家まで行って
毛布を取って来ようと決意したのでした。
「女の人が、ガレキの中を歩いて取りに行くのは無理だし、家もガレキで一杯で怪我するよ。」
と言われたんだけど、やるしかないと心に決めた。
寒くて凍えそうだから、せめて日が照って、少し暖かくなってから行こうと思っていて、
よし行くぞ、と思った丁度その時、ふいに旦那が現れました。

旦那が私の目の前に現れた時は、現実だと思えなくて、3度見してしまいました・・・。
彼は、山形からその日のうちに戻って、水浸しで道路が封鎖されている所で何日も待って、
車で入れるところを探して無理やり入って、その途中に車を置いて、
ガレキでいっぱいの国道を歩いて助けに来てくれたのでした・・・。

「死ぬ前に、最期にもう一度だけ会いたいな~。」と思っていたので、
そして、本当に会えるとは思っていなかったので、とっても嬉しかったなあ~・・。



ちなみに、母はその後、石巻を脱出して、消防で紹介してもらった病院で薬をもらって、
なんとか内臓に穴が開かずにすみました。



・・・その後いろいろなことがあって、今に至ることとなります・・・。

110331_092859.jpg
(津波に流された私の車。)


あれから一年が経ちますが、長くて、あっという間で、
必死で駆け抜けた一年でした。


連絡が取れなかった親戚は、避難所を探したり、
避難者名簿を探したのですが、どこにもいなくて、
遺体で見つかりました・・。


親戚も、幼馴染も、同級生も、同級生の親もなくなりました。


ツライことも悲しいことも、正直、たくさんありました・・。
でも、人は前を向いて生きていかなくてはなりません。
生きていればきっと、いろいろ修復出来たり、回復出来たり
することもあるでしょう。


そして、地震と津波を経験した私は、それを人々に伝えていかなければ
いけないな~と、思っています。

一年を迎えるころになって、やっと落ち着いて話が出来るようになりました。




明日に続きます。
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